ほげほげ

ようやく(仮)が取れたらしい。他愛もないことを書いてみるのです。

八甲田山雪中行軍遭難資料館

八甲田にハイキングでも行こうかなあ〜と思ったのですが、山に向かう途中、雪中行軍遭難資料館の前を通りましたので、立ち寄ってみました(結局この施設を十分に堪能し時間がなくなったため、ハイキングは中止しました)。


このルネッサンス様式な佇まい、遭難百周年平成16年に新築されたものだそうです。青森歩兵第五連隊の兵舎を参考にして建てたとのこと(兵舎は現在、陸上自衛隊青森駐屯地内に移設されています)。
結構なお客さんが来ていました。ガイドさんによると、最近は関西などからのお客さんが増えているとのこと。
館内に入ると、有名な後藤伍長銅像のレプリカがあります。銅像はここから20分くらい車で登った銅像茶屋にあります。

この雪中行軍、当時ロシアに攻めこまれた場合に、軍備の手薄な八戸から攻めこんでくると想定、青森〜八戸間の道路が使えなくなった場合に備えて、八戸方面へ山を越えて進軍できるか、という調査の位置づけで行われました。
青森第五連隊は、青森県民でなく、他県(主に岩手県、宮城県)の兵隊で構成されていました。青森の豪雪を知らない部隊だったこと、短期間の行軍であったために準備が万全ではなかったこと、ソリを利用して大量の荷物を運んだために行軍が遅れたことなどが、このような悲劇につながった要因であったようです。
一方同じ頃、弘前の第三十一連隊は弘前から十和田湖を経由し、三本木(現十和田市)、さらに田代平、青森市を経由し弘前まで戻る十一泊の全長200kmを超える長距離行軍をおこないました。
こちらは一人も犠牲者を出すことなく、行軍を完了しました。こちらの連隊は青森市、弘前市の兵隊で構成されていたことや、事前の準備を入念におこなっていたことなどから、犠牲者を出さずに行軍を完了したとのこと。
二隊の明暗を分けたのは準備とか装備といったものだけなのでしょうか。
その辺りを考えてみるのも良いかもしれません。

これは当時の雪中行軍の装備(映画のロケで使ったものらしいです)。

コートは本当に薄いです。今の季節に着ても良いくらいの薄手のコートです。
足はわらで編んだ靴。歩いてると温かいが、立ち止まると付いた雪が凍り凍傷の原因になるとのこと。
そんな中一人、ゴム長靴を購入しはいてた将兵がいて、その人は凍傷にならずに下山できたとのこと。

こちらは現在の自衛隊の行軍時の装備。この遭難時はまだ日本にはスキーの文化も伝わっていなかったとのこと。もし当時スキーがあれば、こんな悲劇はおこらなかったかもしれません。

館内を見学後、ガイドさんが外にある陸軍墓地の説明など、端から端まで凄く丁寧にガイドしてくださいました。

実際の露営地ですが、普段谷地温泉に行く時や、スキーで銅像ルートを下った際に何度も通過していました。幸畑〜銅像茶屋〜田代平への道路を通過すると次々に看板が出ているのでなんだろうなあ〜、と思っていたのですが、この資料館の資料を見てようやくその意味がわかりました。ここで兵隊さん達が露営し力尽き、亡くなっていったのですね。。
当時の装備で今の八甲田に行くことはないでしょうが、スキーをするにしても登山をするにしても、細心の注意を払わなければならないな、と感じました。

冬になると良く八甲田でスキーしていますが、映画「八甲田山」まだ通して見たことがないので、今度是非見てみようと思いました。
陸上自衛隊に移築された兵舎も、平日であれば見学が可能なようですので、いつか機会があれば見学してみたいですね。



そんな歴史を伝える建物のそばでもキノコは平和に育っていました。


青森市八甲田山雪中行軍遭難資料館
開館/9時〜18時(4月〜10月)
   9時〜16時30分(11月〜3月)
休館日/12月31日、1月1日、2月の第4水・木曜日